コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

  1. ホーム
  2. コラム「復・建」

2013/08/26

高村光太郎と房総

▼高村光太郎といえば、詩人、批評家、画家、彫刻家と多様な顔を持つが、多くの人がまず思い浮かべるのは〝詩人〟としてのイメージだろう。「道程」「智恵子抄」などの詩集は今でも根強い人気がある。千葉市美術館で先月18日まで開かれていた「高村光太郎展」はこのうち、光太郎の原点といえる木彫作品などを展示し、彫刻家・光太郎に焦点を当てていた
▼光太郎はこと彫刻の制作とその発表には慎重であり続け、1945年の空襲でアトリエが被災し多くの彫刻作品が失われたことや、疎開による環境の変化が彫刻の制作機会を妨げたことなどから、その全体像は見えにくいものとなっていた。しかし没後、数多くの展覧会が開かれ、代表作の「手」などが日本を代表する作品として取り上げられるようになった
▼「手」とともに有名な青森県・十和田湖畔にある「裸婦像」は最晩年の作品で、今回の展観では小型試作と中型試作が展示された。この像は明らかに亡き妻・智恵子をイメージして創られたもので、このほかにも智恵子の面影を映す「裸婦坐像」などが展示され、智恵子の存在の大きさを改めて感じさせられた
▼同時代の他の作家の彫刻とあわせて、智恵子が残した紙絵も多数展示された。智恵子の紙絵は、統合失調症の作業療法として1936年ごろから制作が始められ、38年に没するまで続いた
▼智恵子はその数年前の34年に、九十九里町真亀納屋にある実妹の「田村別荘」に転地療養。この間、光太郎は毎週東京から必ず見舞いに訪れたという。当時の様子は「智恵子抄」の一節にも描かれ、現地には今も「千鳥と遊ぶ智恵子」の碑が建つ
▼「人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の/砂にすわって智恵子は遊ぶ/(中略)/もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の/うしろ姿がぽつんと見える/二丁も離れた防風林の夕日の中で/松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す」。本県ともゆかりの深い芸術家・高村光太郎。そのことを知ればなおのこと、その彫刻作品が感慨深く思われた。

会員様ログイン

お知らせ一覧へ