2023/04/20
文人・木米の素顔
▼「誰もが知る」というより「知る人ぞ知る」人物というべきかもしれないが、江戸時代後期に活躍した青木木米(1767~1833)は、仁阿弥道八、永楽保全とともに幕末京焼の三名工に数えられる。没後190年にあたる今年、その全貌に光をあてた展観が先ごろ都内で開かれた
▼陶工としての名声に目を奪われがちだが、展覧会では画家として、さらに一流の文人としての木米がクローズアップされていた。約190点に及ぶ展示作品も焼き物のほか、絵画や幅広い交友関係にまつわる資料が目立った
▼展観からは、古今東西の美を自在に結びつける創作の姿勢が伝わり、愛すべき人柄もうかがえる。親友の画家、田能村竹田が煎茶をふるまう木米を描いた墨画「木米喫茶図」からは、飄々としながら柔和にして、意志の強さも感じられる人間像が見て取れる
▼竹田いわく「木米の話は諧謔を交え、笑ったかと思えば諭す、真実かと思えばうそ。奥底が計り知れない」。魅力的でありながら、一筋縄ではいかない面もあったようだ
▼京都祇園の茶屋に生まれ、その名前は茶屋の名の「木屋」や氏の「青木」、俗称が「八十八(やそはち)」だったことにちなむ。若い頃から篆刻を習ったり古い時代の陶器を鑑賞したりと、諸芸にたけた文人としての生き方に接し、審美眼を養っていった
▼京焼の先駆者、奥田潁川(えいせん)に師事し、陶業の道に進んだものの、窯の爆発事故で耳を悪くする災難に見舞われた。それでも30代で中国の陶磁専門書『陶説』を翻刻して陶業に励んだ
▼作品に記されたおびただしい詩文や書簡などからは、「識字陶工」と称される通り、教養豊かな文人であったことに気づかされる
▼竹田に残した遺言は「これまでに集めた各地の陶土をこね合わせ、その中に私の亡骸を入れて窯で焼き、長い年月の後、私を理解してくれる者が、それを掘り起こしてくれるのを待つ」という壮絶なもの。なにものにもとらわれず、我が道を行く奔放さは、何かと息苦しい時代に生きる私たちの心に深く響くものがある。