2022/06/28
久兵衛と六兵衛
▼世襲を常とする名家を継ぐ人の重圧や葛藤はいかばかりかと、他人事ながら心配になることがある。世襲制を敷く職業はいくつもあるが、何代、ときには何十代と続く。陶芸家で名高い清水六兵衞もそうした名跡の一つだ
▼当代が八代目だが、その父である七代六兵衞の回顧展が千葉市美術館で開かれている(7月3日まで)。彫刻と陶芸という二つの表現領域で活躍した清水九兵衞/六兵衞(1922~2006)の、生誕100年を記念した初の回顧展だという
▼彼ほど何度も名前が変わった表現者は珍しい。1922年に名古屋市で塚本廣として生まれ、戦前に建築、戦後に彫金を学び、51年に京焼を代表する名家である六代六兵衞の養子となり清水姓となる。清水洋、裕詞などとして陶芸作品を発表する一方、五東衞の名で彫刻も発表。68年には彫刻家として清水九兵衞を名乗り、80年には陶芸家の七代六兵衞を襲名し、九兵衞と併用。長男に六兵衞を譲った2000年以降は、九兵衞として主に彫刻を手掛けた
▼こうした目まぐるしい変遷を知るだけでも複雑な歩みがわかる。どれほど器用な才人でも葛藤や重圧と無縁ではいられなかったに違いない
▼事実、本人自ら冗舌な陶土の質感になじめない思いを唱え続けた。彫刻ではアルミを多用した大型作品の迫力に目を奪われがちだが、陶芸も含めて、京都の町家の黒い瓦や茶室が持つ繊細な質感が作品に表れる。68年に九兵衞を名乗ってからは、アルミを主な素材とする彫刻家として、構造と素材、空間などとの親和(アフィニティ)を追求し、その作品は日本各地に設置された
▼七代六兵衞を襲名したのも80年に六代六兵衞の急逝を受けてのもので、陶芸作品による襲名披露展はさらに87年まで待たなくてはならなかった。その後も彫刻との両立を続け、昼は彫刻、夜は陶芸と精力的な創作を続ける姿も、会場で上映されている映像にとらえられていた
▼異なる表現領域で多くの傑作を残したその功績は、今後もますます評価されていくことだろう。