2019/10/23
ドイツ文学者「池内紀」逝く
▼この人の手にかかると、どうしてこうも平明で心にすとんと落ちる訳文になるのかと常々感心させられた。翻訳以外でも、軽妙な語り口でつづられたエッセーが人気を集めた。その文体には簡潔で切れのある独特のリズムがあり、ユーモアや哀感あふれる文章も多かった
▼フランツ・カフカ作品などの翻訳で知られたドイツ文学者の池内紀(いけうち・おさむ)さんが8月末に78歳で亡くなった。その旺盛な執筆活動からして、突然とも思える訃報がいまだに信じられない
▼小説などの訳文の後に掲載される解説も楽しみだった。その作品を物した作家の心のうちを翻訳者として的確にとらえなければ書き得ない▼例えば、世紀末のウィーンを描いて知られる作家シュニッツラーの小説『夢小説・闇への逃走』も、池内さんの名訳であると同時に、巻末に付された解説も忘れがたい
▼シュニッツラーはユダヤ系の高名な医学者の息子であり、自身も医者だった。医者を廃したのちも創作活動を続けたことについて、池内さんは解説の中で「文学を魂の解剖用のメスとして開業をつづけた」と表現し、「さながら医学者が病理報告をするようにして、一つの頭脳のなかで演じられた奇妙なドラマを語っていった」。さらに「それは魂の暗部だけにとどまらない。おりしもドイツではナチスが急激にのしあがり、いたるところに鉤十字の旗がひるがえりはじめたころだった」と説明している
▼そういえば、池内さんにとっては、ドイツ文学者として愛するドイツになぜナチズムが生まれたかが終生の課題だった。カフカの小説を全訳し、評伝を書く間、「カフカが愛した姉や妹や恋人がアウシュヴィッツで死んだことを、かたときも忘れなかった」と、生前最後の書となった『ヒトラーの時代』の中で明かしている
▼独裁者を誕生させた時代を読み解いた現代への警告の書であり、その執筆はドイツ文学者として「課せられた義務だった」と強調している。ドイツ文学者としての痛みや誠実さを垣間見る思いがする。