2019/01/22
千葉にいずる風雲児「林響」
▼煩雑な都会の喧騒を嫌い、田園生活を夢見る芸術家は少なくない。千葉県出身の日本画家、石井林響(1884~1930年)もその一人と言える。42歳で房総に戻り、画房を完成させた折には「野に帰る心地」と心境を吐露している。林響の内側には、理想郷としての房総が生涯を通じて強く意識されていた
▼林響は山辺郡土気本郷町(現千葉市)に生まれ、明治末に若くして画壇に登場し、昭和の初めにかけて活躍した。旧制千葉中学校を経て上京し、橋本雅邦に入門、彗星のごとく画壇にデビューした
▼歴史画を中心として評価を得るが、色鮮やかな風景画や南画朦朧体風の田園風俗画など次々と画風を変化させた。しかし次第に画壇と距離を置くようになり、1926年、郷里に近い大網宮谷(現大網白里市)に画房「白閑亭」を築いて拠点を移した
▼ごく初期の作から「總之野是吾生地」印が捺されていることからも、郷里への想いは生涯変わらず、房総の縁故者や支援者の助力も得た。上京した当初から房総出身であることを意識し、「郷土礼賛」の気持ちを表明していたことも郷里の人々の心に響いたものと推察される
▼21年には房総を巡り、「仁右衛門島」「隧道口」「砂丘の夕」という郷土を描いた三部作を発表。平福百穂をして「才筆の凡ならざるを看取される。才人才を包蔵することが六づかしいと見える」と言わしめ、文字通りこれが林響の代表作となった
▼26年4月に居を構えた大網宮谷については「史跡に富み天然に佳く、此の山此の谷一草一木悉く余が少年夙に憧憧せし所」と評し、庭の禽舎で白閑鳥を飼い、その鳥にちなんで画房を「白閑亭」と名付けた
▼しかし移居後3年にも満たない29年3月、脳出血で倒れ、一時は回復したものの、翌年2月、45歳でこの世を去った
▼野に帰り、自由に描く境涯を得た林響だったが、やすらぎの時は長くは続かなかった。それでも一つの物語を完結させたかに見えるその生涯は、芸術家が終生追い求めた理想の世界について考えさせられる。