2017/08/08
戦後復興に見る逞しさ
▼戦後72年。戦争を振り返る8月がまた巡ってきた。千葉市では毎年7月から8月にかけて千葉空襲写真パネル展などの平和啓発事業を展開している。こうした事業を通じて、改めて戦争の悲惨さを後世に伝え、平和を考えたい
▼「戦中」とは一般的には太平洋戦争中の日本を指すが、広義にとらえれば、1931(昭和6)年の満州事変から日中戦争、太平洋戦争を経て45(昭和20)年8月の終戦まで15年の長きにわたったことになる
▼戦時下では頻繁な防空演習はもとより、高学年の女子によるなぎなたの練習、子どもたちによるさつまいもの切り干しの供出作業など、市民生活に大きな影響が及んだ。千葉市では、戦況が厳しくなってきた44(昭和19)年に千葉駅に女性の改札係が登場。また、旧千葉医大附属病院の外壁には迷彩(カモフラージュ)が施された
▼千葉市内には陸軍関係の学校や施設が多く、陸軍歩兵学校や気球聯隊などが中央区や稲毛区に集積していたため、空襲も数度あり、45(昭和20)年6月10日と7月7日の空襲では中心市街地の約7割(231ha)が焼け野原と化した。とくに後者の「七夕空襲」では死傷者1204人、被災戸数8489戸という甚大な被害を受け、公共施設や軍事施設も多数攻撃された
▼8月15日のポツダム宣言受諾により太平洋戦争は終結したものの、空襲による家屋の消失や物価高騰、食糧不足など終戦後も市民生活は困窮を極めた。主な生活物資は配給制だったが、千葉銀座通りなど各所で闇市が増加した
▼一方で人々は必死でバラック小屋を建て、生活の再建や街の復興に向けて立ち上がった。近隣の人々が協力し合い道路工事などを行う勤労奉仕も見られるようになる
▼千葉市の復興計画が認可されたのは46(昭和21)年。この計画により、国鉄千葉駅や京成千葉駅の移転を中心に道路・公園などの整備が進められ、現在に至る都市計画の基礎となった。一度は荒廃の淵に落とされた先人らの復興に向けたたくましさからも、学ぶべき点は少なくない。