コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2016/10/25

ディランのノーベル文学賞受賞に思う

▼音とともに歌詞の意味がストレートに頭に入ればどんなに素晴らしいかと考えたことのある洋楽ファンは多いだろう。そもそも音楽の中には、音より歌、しかもその歌詞の内容が重要な意味を持つものも多い。それゆえ歌詞が理解できなければ、音楽そのものの魅力が半減してしまうこともある
▼米ミュージシャンのボブ・ディランが今年のノーベル文学賞に選ばれた。ここ数年、下馬評には上がっていたが、歌手の文学賞受賞に驚いた人も多いだろう。実際その受賞には賛否あるようだが、ノーベル文学賞の概念を覆す点では画期的なことだ。もっとも〝吟遊詩人〟と称されるディランだから、詩人がノーベル文学賞を取って何の不思議があるかとの論法にもなる
▼ボブ・ディランは1941年生まれの75歳。62年のレコードデビュー以来、半世紀以上にわたり人々に多大な影響を与えてきた。現在でも年間100回ほどライブをこなすというから、バリバリの現役と言っていい
▼洋楽好きの筆者だが、なぜかディラン体験というものがない。聴く機会は何度もあったはずだから、ここにも歌詞という言葉の壁があったのかもしれない。歌が生きた言語としてすんなり耳に入っていたら、否応なしにその音楽の虜になっていたのではないかとも思うのだ
▼音楽評論家の萩原健太さんは「ディランの歌詞は難解で、英語が不得手な日本人にはある種の苦行」と言う。それでいて「作為、無作為問わず、選び取られた語の連なりが描きあげる世界観は、この上なく多層的かつ刺激的」と評している
▼代表曲の「風に吹かれて」は「どれほどの弾がうたれねばならぬのか 殺戮をやめさせるために/どれほど多くの耳を持たねばならぬのか 他人の叫びを聞くために」などと歌われるごとに「その答えは風の中 風が知っているだけさ」と結ばれ、答え探しは聴く者の側に委ねられる。ディランがはたしてこの賞を受けるのか、関係者はやきもきしているようだが、それも彼らしく、風が知っているだけなのかもしれない。

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