コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2016/04/12

日本人の桜花観

▼桜の季節は短い。日本人がこれほど桜を愛するのも、その短さゆえに掻き立てられるものがあるせいだろう。かく言う筆者も開花宣言を聞いて以来、どこか華やぐ気分だった。それだけに、先週の花散らしの雨は恨めしかった
▼この季節、若い時分に読んだ『桜の精神史』(牧野和春著)という本を、懐かしさとともに引っ張り出した。冒頭の一文は「サクラ、さくら、桜。どのように書いてみても美しい」。確かにこれほど名が体を表す単語もそうはないだろう。文字だけでなく、口ずさんでみても心地よい響きがほのかに残る
▼日本では「古今集」以来、花といえば桜を指した。同書ではその桜がいかに日本人の心に定着し、精神の基層部分を構成してきたかが論じられている。古代人にとって神の依代だった桜は、仏教的無常感によって移ろいの象徴となった。どっと咲き誇ったかと思えば、花吹雪となって散るありさまを、この世の無常と重ね合わせたのだと、著者の牧野氏は言う
▼「平家物語」に描く乱世では〝無常感〟は〝無常観〟に変質し、散りゆく桜を人々は凝視するようになる。平忠度(ただのり)が「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」と歌ったように、無常の極として「死」とも結びつく
▼桜吹雪と化した桜は、南北朝の動乱を経て世阿弥によって永遠の生命としての「精」として再生され、くだって江戸期には本居宣長の国学思想とともに復活。それが幕末の志士の行動にもつながり、明治になると、大和魂や武士道における死と結びつく。宣長によって「実」として登場した桜は敗戦でひとまず終止符が打たれたと、牧野氏は考える
▼現代の桜花観は、さしずめこれらとは別の系譜に位置するものだろう。強いて言えば、江戸庶民に見られた「花より団子」の桜花観に近い気がする。歴史に見る桜の系譜は現代人には忘れられてしまったようだが、それはそれで平和の証しにも見える。いや案外、レジャーと化した桜にも、日本人の遠い記憶は宿っているのかもしれない。

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