コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2016/02/16

被災校舎が教える火砕流の記憶

▼「災害列島」「災害大国」などというありがたくない命名を最近よく見かける。災害も度重なれば、古いものなどが次々と忘れられていくのではないかと逆に心配になる。44人の死者・行方不明者を出す大惨事となった長崎・雲仙普賢岳の噴火も、気がつけば1990年11月17日の噴火から25年が経ち、記憶の風化が進んでいると聞く
▼筆者は噴火から25年を迎える昨年11月初めに、91年9月の火砕流で焼失した旧大野木場小学校の被災校舎(南島原市)を見学する機会を得た。校舎はほぼ外観を残しているものの、熱風で大半の窓ガラスは溶けてなくなり、窓枠はねじ曲がっている。校舎内部も無残に焼け落ちてしまった教室が多く、災害の恐ろしさを生々しく今に伝える
▼幸い、このときの火砕流では生徒や地域の人的被害はなかったが、被災校舎は噴火災害の恐ろしさを後世に伝えるために保存され、99年4月に一般公開された。ちなみに保存工事の内容は、屋上の防水工事、雑排水(雨どい)、窓枠の塗装、表面のモルタル剥離の薬液注入などだった
▼東日本大震災でもそうだが、震災遺構の保存についてはさまざまな意見がある。被災者の方々の思いなど難しい問題を孕みつつも、こうした傷跡をわかりやすい形で伝えていくことはやはり必要なのではないかと改めて感じた
▼普賢岳では被災校舎に隣接して国土交通省所管の「砂防みらい館(大野木場砂防監視所)」が整備され、写真やパネル、ビデオなどによる災害の状況・復興の様子などを見学できる。同館は、①溶岩ドームの監視②工事従事者の避難場所の確保③緊急時の無人化施工操作室の確保④火山砂防の広報――の4つの機能を持つ施設として整備された
▼周辺ではいまも大掛かりな砂防事業が進められ、観測などによる警戒も続いている。現実には記憶の風化どころでなく、山頂付近に形成された溶岩ドーム崩落の危険や登山者用シェルターの整備、監視体制の維持・強化など、25年を経たいまも課題は山積したままだ。

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